霊峰への負荷 湛山憂う
52歳初登山の紀行文 県立文学館で確認 ごみ、登山者 今も課題
山梨県で青少年期を過ごし、今年で没後50年を迎えた第55代首相・石橋湛山(1884~1973年)が、富士登山の様子をつづった原稿の掲載誌が、甲府・県立文学館で保管されていることが21日までに分かった。ごみの散乱や登山者の多さを問題視し、「今日の富士に登って敬虔の念は起こし得ないであろう」とつづった。世界文化遺産への登録が決まり10年がたったが、自然環境や登山道の神聖な雰囲気の保全は永遠の課題。湛山に詳しい専門家は「登山記にとどまらず富士山の環境問題に触れている点に、言論人としての湛山らしさが表れている」と指摘している。
掲載されているのは、1937(昭和12)年に出版された文化雑誌「野火」9月号。「初めて富士に登る」と題して同年夏の富士登山の様子を3ページにわたってつづっている。当時、湛山は52歳。政治家への転身前で、東洋経済新報社で言論人として活躍している時期と重なる。
原稿は「小学校から中学を終わるまで山梨県に育ち、朝夕富士を眺めて暮らした私は、五十歳を越える今日まで、まだこの山に登ったことがない」との書き出しで始まる。7月31日、次男の和彦らとともに山中湖畔の別荘を自動車で出発し、1合目手前の馬返しから登山を開始。7合目で1泊し、登頂した後に御殿場口を下って別荘に戻った。
山中湖や江の島の眺望などを紹介しながら「帰るまで約二十五時間、(中略)面白き時を過ごした」と回顧。一方で登山道には空き缶、空き瓶が散乱しているほか、「押し合いへし合い」の状態で列をなす登山者に対してトイレの整備が追いついていない現状を指摘している。富士登山を「満悦の成功」と振り返りながらも、その喜びについて「富士山そのものからはあまり与えられたとは感じ得ない」と記した。
原稿が掲載された雑誌は数年前、石橋湛山記念財団の機関誌「自由思想」の中川真一郎編集長が県立文学館で確認した。湛山の原稿などを収録した「石橋湛山全集」の著作リストに含まれておらず、中川さんは「当時の編集部は存在を把握していなかっただろう」と説明する。全集には富士登山についてつづった別の原稿が収録されているが、詳細な登山ルートまでは記されていないという。
山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館の浅川保理事長は「湛山の富士登山は日中戦争開戦の年。湛山は全国各地で講演会を開催するなど精力的に活動し、富士登山はつかの間の休息だったのかもしれない」と推測する。
2013年6月、富士山は世界文化遺産に登録され、湛山が育った山梨、政治家としての足場を築いた静岡の両県は、世界に富士山の価値を後世につなげると約束した。登録から10年がたち掘り起こされた貴重な原稿に、浅川理事長は「80年以上前の富士山の様子が分かるとともに、登山者の多さなど現代にも通じる課題を指摘している。物事を多面的に捉えて言論活動を展開した湛山らしさが感じられる」と意義を強調した。
県立文学館は8月27日まで、常設展にある石橋湛山のコーナーで雑誌を展示している。
(2023年6月22日付 山梨日日新聞掲載)