富士山噴火のナゾ解明へ 山中湖底の「宿場」を調査 富士山洞穴研究会
富士山の噴火のナゾを解明するために山中湖の湖底を調査することになった。これは富士山洞穴研究会(会長、津屋弘達・東大名誉教授)が、南都留郡山中湖村の協力で実施するもので、潜水夫が湖底にもぐり、湖底に眠る昔の宿場“水市”や立木の状況を撮影し、立木の一部を切り取ってアイソトープで年代を測定する。
湖底の立木や水市は、今から1175年前の平安時代初期(延暦19年、西暦800年)、富士山が大噴火した時、鷹丸尾の溶岩流で湖水がせき止められたため水没した-と推定する説と、平安初期(承平7年、西暦937年)の噴火で水没したという津屋教授の説が対立していたが、今度の調査で、判定がくだされようとしている。
平安中期の法令集・延喜式や富士吉田市大明見にある富士古文書によると、平安初期の東海道は富士北ろくを通っていた。当時は鳴沢村付近、富士吉田市、それに山中湖の湖底に沈んだといわれる水市などの宿場があったという。「それぞれの宿場には駅馬五頭が置いてあった」と書いてある。
今度の調査に、スタッフとして参加する県立富士ビジターセンター嘱託、渡辺長義さん(56)は「平安時代には、3つの宿場とその周辺を合わせると富士北ろく地方には1600戸、5400人が住んでいた。水市には5、60戸が点在していた」と推定している。しかし、当時の人家は掘っ立て小屋程度のもの。このため、湖底に沈み、すでに1100余年たっている今日では、水市の遺跡が湖底に残っているかどうか疑問視する向きもある。しかし、立木の方は水市より確立が高いという。地元には「山中湖の美咲付近の沖合で、漁師が網を立木に引っかけた」という言い伝えがある。「関東大震災の時に湖水の水が大幅に減り、立木の頭が見えた」という話も残っている。
渡辺さんは「水市は水口とも言った。馬を飼っていた宿場だから、浜辺近くか、わき水の出ているところにあったと思われる。現在の山中湖には平野沖合400メートルの湖底にわき水の場所がある。水市があるとすれば、たぶんあの辺ではないか」といい、古文書に描かれている地図を見ながら、位置を割り出している。
富士古文書によると、平安時代初期に2つの富士山大噴火があったが、それ以前は山中湖は宇宙湖(うつこ)といわれ、いまより2回り以上も大きかった。現在の山中湖村から忍野にかけて、一面湖だったといわれる。ところが、噴火の際の溶岩流で宇宙湖は2つに分断され、ほぼ現在の山中湖が出来上がった。この時の噴火で、現在の山中湖の方は水位が上がり、浜辺にあった水市は完全に湖底に水没したと推定されている。
一方、史書「日本後記」や「富士古文書」によると「延暦19年は富士山全体が大噴火した」とあり、72カ所から噴火し、溶岩は四方に流れた-としている。この時の鷹丸尾溶岩流で宇宙湖が分断され、2つの湖になったと推定する人がいる。
どちらの噴火によって水市や立木が水没したか、この春行われる湖底調査で明らかになるとみて、地元では期待している。【当時の紙面から】
(1975年1月1日付 山梨日日新聞掲載)