戦後最高のお山開き、1200人が登る
富士山、好天に恵まれ外国人も
富士の山開きは例年にないよい天気に恵まれ河口湖、吉田両口をあわせて6月30日夜から7月1日にかけ計1200人が本県側から登り、戦後最高の人出を記録した。
ご来光とともに河口湖口5合目の小御嶽神社では地元河口湖町役場職員や観光業者約50人が参加して朝4時すぎから山の無事を祈る開山式を行い天狗が先導して「六根清浄」ととなえながらみこしをお中道付近までねり歩き前景気をつけた。9合目以上はあいにく風も強く雲におおわれたが、8合目以下では雲の間からご来光をおがめ、江ノ島や太平洋などの遠景ものぞむことができた。
空前の人出を記録したのは30日が日曜だったのと天気に恵まれたためで、変わり種ではカメラ会社技師のドイツ青年ピーター君(24)が1日朝河口湖口から登山、また御殿場市の太郎坊にキャンプ中のアメリカガールスカウト10人のグループも山頂目ざして“ワンダフル”を連発しながら元気に登って行った。
富士急行調べによると1日夕刻までに河口湖口から800人、吉田口から450人計1250人が自家用車も含めて登ったので山開きの人出としては戦後最高を記録し、富士吉田署佐藤巡査の話では女性の登山者のなかで富士山は初めてという人が案外多かったという。なお吉田口では1日午前10時から富士浅間神社では古式豊かなおかぐらを奉納して山開きの式を行ったが、山小屋業者はさいさきがよいと大喜びだった。
■にぎやかにホテル開き マウント・富士
山中湖畔大出山に新設した“ホテル・マウント富士”の店開きが1日約1000人の名士を招いて盛大に行なわれた。1泊1万8000円の特別室をはじめ県下一の施設をほこる観光ホテルに見物人たちも目を見はっていたが、午後0時半からロビーで岸元総理をはじめ天野知事、五島東急社長、運輸省係官など1000人が参加して披露パーティーが開かれ、山梨放送の富士山とホテルを結ぶ2元放送や芸能人の余興もあってにぎやかに店開きした。【当時の紙面から】
(1963年7月2日付 山梨日日新聞掲載)