連休の富士山で大量遭難 登山史上最大の惨事
「春分の日」の20日、低気圧が走り抜け、富士山は強風と雨と高温という最悪の気象条件。このなかで登山訓練のため入山していた各パーティーが次々と倒れ、富士山の遭難史上最大の遭難事故となった(21日午後4時半現在、18人死亡、5人行方不明)。
猛吹雪の中でなだれに巻き込まれ、凍死していった富士山の大量遭難事故現場では21日終日、約500人の大捜索隊が激しい風雪、視界不良、積雪に悩まされながら困難な発掘作業を行い、変わり果てた遺体を次々に収容した。この日は遭難死者18人を急ぎ設けられた御殿場市善竜寺本堂の「富士遭難者遺体安置所」に運び、遺族と悲しみの対面をした。
22日の捜索は警察、消防、御殿場市役所、自衛隊、地元山岳会の5者連絡会が中心となって午前8時から」再開される。遺体収容が進み、犠牲者の実態が明らかになるにつれて自然の猛威が浮き彫りにされ、富士山遭難史上最大の悲劇となった。
この日の捜索は、御殿場口登山コースの太郎坊観測所から7合5勺までのうち、遭難した登山者の乗用車15台が雪崩で押しつぶされた新2合目バス停から宝永直登ルートの砂走り6合目付近一帯。約500人の捜索隊員が2メートル先も見えない濃霧と横なぐりの吹雪、それにたっぷりと水を含んだ雪で雪崩の危険がいっぱいの悪条件の中で必死に続けられた。
正午から夕方にかけて2合5勺の山小屋、3合目の夏道ルート、走4合あとなどでは、歯を食いしばり苦悶の表情をありありと浮かべた遺体が次々と確認された。だが“混成捜索隊”の悲しさで遺体の発見数がだぶって多く数えられたり、氏名確認が遅れて対策本部に詰め掛けた遺族の怒りをかっていた。捜索現場は午後3時過ぎから一帯の凍結が始まったため、二重遭難の危険があると判断、この日の捜索はいったん打ち切られた。
捜索隊員らは「ポカポカ陽気で山を甘く見て登山したのではないか」「連休、目一杯の日程で登山をするのは最も危険だ。それにしてもなだれ注意報を無視するとは…」と、くたびれ果てた様子で無謀登山を指摘した。
春山史上、かつてない犠牲者を出した富士登山口の御殿場市は、どっと繰り込んだ報道陣や遺族、救援隊員らで警察署周辺がごった返した。21日午後0時半すぎ自衛隊の救急車で遺体が運ばれて来ると「苦しかったろう」と肉親らが駆け寄っていた。【当時の紙面から抜粋】
(1972年3月22日付 山梨日日新聞掲載)