織物の街、往時伝える料亭
織物産業の隆盛で、かつては深夜まで人が絶えないほどのにぎわいを見せた富士吉田市の繁華街。そんな下吉田地区の西裏通り近くに、ひときわ目を引く豪壮な和風建築「旧角田医院」がある。
木造2階建て、延べ床面積約340平方メートル。機械化が進み「甲斐絹」として盛んに輸出されていた昭和初期の1928(昭和3)年、織物業者や買い付けに訪れた問屋をもてなす高級料亭として建てられ、太平洋戦争が激しくなった1943年ごろ廃業。終戦後の1945年ごろから移転する1986年まで、「角田医院」として地域住民が診察を受けに訪れた。医院移転後は角田家の住居として使われていたが、現在は住居を別に建てて保存している。
外観は神社仏閣を思わせ、玄関を入ると大きなケヤキの一枚板の式台が目に入る。1階は医院として一部改築されているが、2階の小部屋と大部屋の二間は料亭当時の姿をそのまま残す。
西側の小部屋は一段高く造られ、障子やふすまの木を組み合わせた細かな装飾が高級感を漂わす。東側の大部屋の天井は、漆で塗られた木材が格子状に組まれた格天井。玄関の屋根部分にはコイ、2階客間には「忠臣蔵」の大石内蔵助が料亭で遊ぶ姿などが精巧に彫刻されている。
今は取り壊されているが、100畳間もあり、宴会が繰り広げられたという。1920年代末の首相浜口雄幸が訪れた際の直筆の書が残されており、にぎわいをうかがい知ることができる。
現在一般開放はしていないが、上部の外観は通りから見ることができ、市内の街歩きイベントなどでは門を開放することもある。
◇
富士急行線下吉田駅から徒歩15分。9月19日に流鏑馬祭りが開催される小室浅間神社から徒歩10分。
木造2階建て、延べ床面積約340平方メートル。機械化が進み「甲斐絹」として盛んに輸出されていた昭和初期の1928(昭和3)年、織物業者や買い付けに訪れた問屋をもてなす高級料亭として建てられ、太平洋戦争が激しくなった1943年ごろ廃業。終戦後の1945年ごろから移転する1986年まで、「角田医院」として地域住民が診察を受けに訪れた。医院移転後は角田家の住居として使われていたが、現在は住居を別に建てて保存している。
外観は神社仏閣を思わせ、玄関を入ると大きなケヤキの一枚板の式台が目に入る。1階は医院として一部改築されているが、2階の小部屋と大部屋の二間は料亭当時の姿をそのまま残す。
西側の小部屋は一段高く造られ、障子やふすまの木を組み合わせた細かな装飾が高級感を漂わす。東側の大部屋の天井は、漆で塗られた木材が格子状に組まれた格天井。玄関の屋根部分にはコイ、2階客間には「忠臣蔵」の大石内蔵助が料亭で遊ぶ姿などが精巧に彫刻されている。
今は取り壊されているが、100畳間もあり、宴会が繰り広げられたという。1920年代末の首相浜口雄幸が訪れた際の直筆の書が残されており、にぎわいをうかがい知ることができる。
現在一般開放はしていないが、上部の外観は通りから見ることができ、市内の街歩きイベントなどでは門を開放することもある。
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富士急行線下吉田駅から徒歩15分。9月19日に流鏑馬祭りが開催される小室浅間神社から徒歩10分。
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