〝幻の噴火口〟を発見 富士山・地質調査団 吉田口3合目付近に24個
〝幻の噴火口〟として古くからうわさされていた富士山の噴火口郡が東京大学名誉教授津屋弘達氏らの地質調査団によって発見された。
発見されたのは富士吉田市の富士山3合目付近。大小24個もの火口が見つかり、富士山2、3合目付近をほぼ一周する火口の輪をつかむことができた。
噴火口の発見のきっかけになったのは、新しく建設されることになった東富士有料道路の予備調査。建設省から依頼を受けた国立公園協会が地質、動物、植物、景観など4部門に分けて調査している。
噴火口を発見したのは地質部門の津屋教授を代表とする調査団。すでに木が伸び、コケむした場所で専門家でなければわからない場所である。
噴火口は大小24個あり、最大口は直径50メートル、深さ20メートル、最小口は直径3メートル、深さ1メートルまで。標高1600メートルから1500メートルまでの間に、山頂から山中湖方面にのびる形で、長さ800メートルにわたっている。これまでに発見された主な火口群のなかには精進、御庭、奥庭などがある。今回、発見されたものは、これまで学者の間で〝幻の噴火口〟と呼ばれていたもので、富士吉田市の富士山3合目付近の通称 焼山と呼ばれる森林地帯。すぐ上を小富士林道が通っており、南東には火山・小富士がある。
津屋教授の見解のよると、この火口群は平安初期の承平7年(937)の噴火の時にできたものではないかとみている。その理由として、この付近から流れ出した溶岩流のよってできた北富士演習場方面の鷹丸尾、桧丸尾の溶岩とほぼ同年代であることなどをあげている。史書「日本紀略」には、この時のもようを〝神火、水海を埋む〟と書かれている。
このほか、富士山の主な噴火としては貞観6年(864)長元5年(1033)永保3年(1083)永禄3年(1560)宝永4年(1707)などあるが、貞平7年の噴火は溶岩流の規模からみてもかなり大規模なものであったと想像されている。
この火口群の発見から、史書「日本紀略」などにも載っている山中湖付近にあったという宿場・水市も実存している可能性が強くなった。「日本紀略」には駿河と甲斐の国とを結ぶ街道があり、山中湖付近に「水市」と呼ばれる宿場があったと書かれている。この噴火で川がせき止められ、そこに水がたまって山中湖が誕生、水市は湖底に沈んでしまったという考え方だ。山中湖の湖底には大木の枯れ木の林があるといわれ、異常減水のときなどは、モーターボートなどの危険を防止するために赤旗が立てられる。同地質調査団は来春にも湖底の調査を実施したいとしている。 【当時の紙面から】
(1974年10月16日付 山梨日日新聞掲載)