北斎の傑作 舞台はどこ?
葛飾北斎の版画「冨嶽三十六景 甲州石班澤(かじかざわ)」。富士川町鰍沢の景観を捉えた作品だが、「どこで描かれたの?」と話題を呼んでいる。地元では富士川沿いの2カ所が候補に挙がり意見が分かれているが、果たして…。北斎の最高傑作の一つにも数えられる作品の舞台はどこなのか探った。
甲州石班澤は、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849年)が手掛けた「冨嶽三十六景」シリーズ全46枚のうちの一つ。富士川の荒波が岩に激しくぶつかり泡立つ様や岩の上で投網を打つ漁師、遠方にそびえる富士山を描いている。北斎の藍摺(あいずり)の中でも最高傑作と評価されている。
「北斎が描いたのは、今の西島トンネルの手前だって聞いたことがあるよ」。富士川町鰍沢で生まれ育った深沢一正さんは言う。
深沢さんが「ここだ」というのは国道52号を南進した先にある富士川、市川三郷、身延の町境付近。西島トンネル北側に立って南東方向を見ると、富士山を望むことができる。「旧鰍沢町内の富士川沿いで、富士山が見えるのはここだけだよ」と教えてくれた。でも、川には波も立っていないし、岩も見当たらない…。富士山も版画とは逆に位置している。本当にこの場所なのだろうか?
【写真】西島トンネル入り口付近の眺め。川に波は立っておらず、富士山が見える位置は「甲州石班澤」の構図と逆だ=富士川町鰍沢
地元では、釜無川と笛吹川の合流点付近にある「禹之瀬(うのせ)」ではないかという声も強い。富士川町教委は「どこで描かれたかと聞かれたら、禹之瀬と西島トンネルの手前だと答えている」という。
禹之瀬は富士川のうち、富士川町鰍沢の富士橋下流から同町鹿島地区までの約4キロを指す。1987年に始まった開削工事以前は、左岸に山がせり出していたため、川幅が急に狭くなる場所で、たびたび氾濫に見舞われた。
「工事の前は、波しぶきが立つほど流れが急なところだった。今はなくなったが、岩も切り立っていた。北斎が描いた当時は漁師が網を投げている岩もあったかもしれない」(町教委)という。
では「禹之瀬が最有力か」というと、「禹之瀬からでは、版画のようには富士山が見えないんです」。町教委の担当者は言う。確かに禹之瀬周辺は両岸とも山が近いため、遠くの富士山は隠れてしまって見えない。
【写真】禹之瀬からの南東方向の眺め。開削工事前は流れが急な場所だったという。両岸とも山が近く、富士山は見えない=富士川町鰍沢
「一体、どこで描いたの?」。甲州石班澤の初刷りの藍摺を所蔵する県立博物館にギモンをぶつけてみた。
「確実に『ここだ』という場所は、実は分かっていないんです」。近藤暁子学芸員は申し訳なさそうに話した。というのも、甲州石班澤のスケッチは現存しておらず、実際に北斎が鰍沢を訪れたかどうかの記録もないという。
ただ「冨嶽三十六景」よりも前に描かれた版本「北斎漫画」では、甲州石班澤を反転させた構図の「甲斐鰍澤(かじかざわ)」を描いている。「北斎には『見えない富士山』を描いている作品もある。総合的に判断して、『禹之瀬付近をイメージしたと思われる』と説明している」という。
北斎が描いたのは禹之瀬の可能性が高そうだが、結局、確かなところは分からなかった。ただ、甲州石班澤の素晴らしさに疑いはないのも事実。国道52号を通りかかったときは「どこで描いたのかなぁ」と、往時に思いをはせてみるのも一興だ。
甲州石班澤は、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849年)が手掛けた「冨嶽三十六景」シリーズ全46枚のうちの一つ。富士川の荒波が岩に激しくぶつかり泡立つ様や岩の上で投網を打つ漁師、遠方にそびえる富士山を描いている。北斎の藍摺(あいずり)の中でも最高傑作と評価されている。
「北斎が描いたのは、今の西島トンネルの手前だって聞いたことがあるよ」。富士川町鰍沢で生まれ育った深沢一正さんは言う。
深沢さんが「ここだ」というのは国道52号を南進した先にある富士川、市川三郷、身延の町境付近。西島トンネル北側に立って南東方向を見ると、富士山を望むことができる。「旧鰍沢町内の富士川沿いで、富士山が見えるのはここだけだよ」と教えてくれた。でも、川には波も立っていないし、岩も見当たらない…。富士山も版画とは逆に位置している。本当にこの場所なのだろうか?
【写真】西島トンネル入り口付近の眺め。川に波は立っておらず、富士山が見える位置は「甲州石班澤」の構図と逆だ=富士川町鰍沢
地元では、釜無川と笛吹川の合流点付近にある「禹之瀬(うのせ)」ではないかという声も強い。富士川町教委は「どこで描かれたかと聞かれたら、禹之瀬と西島トンネルの手前だと答えている」という。
禹之瀬は富士川のうち、富士川町鰍沢の富士橋下流から同町鹿島地区までの約4キロを指す。1987年に始まった開削工事以前は、左岸に山がせり出していたため、川幅が急に狭くなる場所で、たびたび氾濫に見舞われた。
「工事の前は、波しぶきが立つほど流れが急なところだった。今はなくなったが、岩も切り立っていた。北斎が描いた当時は漁師が網を投げている岩もあったかもしれない」(町教委)という。
では「禹之瀬が最有力か」というと、「禹之瀬からでは、版画のようには富士山が見えないんです」。町教委の担当者は言う。確かに禹之瀬周辺は両岸とも山が近いため、遠くの富士山は隠れてしまって見えない。
【写真】禹之瀬からの南東方向の眺め。開削工事前は流れが急な場所だったという。両岸とも山が近く、富士山は見えない=富士川町鰍沢
「一体、どこで描いたの?」。甲州石班澤の初刷りの藍摺を所蔵する県立博物館にギモンをぶつけてみた。
「確実に『ここだ』という場所は、実は分かっていないんです」。近藤暁子学芸員は申し訳なさそうに話した。というのも、甲州石班澤のスケッチは現存しておらず、実際に北斎が鰍沢を訪れたかどうかの記録もないという。
ただ「冨嶽三十六景」よりも前に描かれた版本「北斎漫画」では、甲州石班澤を反転させた構図の「甲斐鰍澤(かじかざわ)」を描いている。「北斎には『見えない富士山』を描いている作品もある。総合的に判断して、『禹之瀬付近をイメージしたと思われる』と説明している」という。
北斎が描いたのは禹之瀬の可能性が高そうだが、結局、確かなところは分からなかった。ただ、甲州石班澤の素晴らしさに疑いはないのも事実。国道52号を通りかかったときは「どこで描いたのかなぁ」と、往時に思いをはせてみるのも一興だ。
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