富士山における大規模な雪崩・雪崩被害
雪代(ゆきしろ)―。富士山麓で聞くこの言葉は、雪国での出来事を連想させる。積雪時に新雪層だけが崩れる表層雪崩と違い、雪代は春先、気温が上昇して雪の溶解が進んだ時に大量の雨が降り、スラッシュ雪崩を起こすことを言う。雪は表面だけでなく、全層的に流れ出す。そして山腹の土石や立ち木を巻き込み、下流のすそ野へ一気に押し寄せる。特に表面が崩れやすい砂礫で覆われた富士山では、それは土石流や泥流となって流れ落ちる。その量が多いときは山裾の家屋や道路、田畑などが大きな被害を受けることもあり、地元の人たちは長年恐れてきた。
雪代が記録として残されたのは、山梨県富士河口湖町小立にある妙法寺の住職によって記された「妙法寺記」が最も古いとされ、1545年2月11日、富士山より雪代水が富士吉田に押し寄せ、人馬ともに押し流されてしまったという。さらに「1559年12月7日には大雨が降って雪代水が出て法華堂などが流された」とある。
また、1834年の旧暦5月に富士山南西麓を襲った雪代と泥流は非常に大規模で、静岡県富士宮市まで達したという。まず大規模な雪崩が村落を襲い、続いて同じ道筋を土砂が津波のように追い打ちをかけた。さらに同年4月8日には、8合目の雪崩から始まった土石流が山梨県富士吉田市大明見の南端で桂川の堤防を越え、同市小明見まで約3キロの人家や田畑を一気に押し流したという記録も残っていて、「午年の流れ」とも伝えられる。
戦後になって1961年の春に起きた大規模な雪代では、4月5日午前3時半ごろから降り出した雨によって富士吉田市内の宮川などが異常増水。同8時ごろには通常より2メートルも水位が高くなり、各地で河川が決壊した。市内では建物1棟が流失、床上浸水57軒、床下浸水118軒、道路4カ所、橋1カ所が流された。3月25日に降った大雪が気温の上昇で一気に溶けたのが原因だった。
1977年3月24日、富士吉田市を襲った雪代は桂川やその支流の宮川などに大きな被害をもたらした。各河川は軒並み異常増水し、宮川下流では深山橋の仮橋が流され、上流では堤防が決壊する場所もあった。白糸町簡易水道の水源に土砂が流入して約280戸で断水、下吉田の養鱒場ではマス約120キロが濁流にのまれて死んだ。
1992年12月8日に発生した季節外れの雪代は、5合目付近の県営富士山有料道路(富士スバルライン)は数カ所で寸断され、土砂と倒木に埋め尽くされた。6合目では県安全指導センターが土石流にのみ込まれた。倒木は7万本にも上った。この時の雪代は大沢崩れや精進口登山道にも及んだ。
2007年3月には静岡県側で発生し、富士山スカイラインが寸断。山梨県側では2004年12月に雪代に似た現象の土砂崩れで、富士スバルラインが寸断。2014年3月にも4合目付近で発生。富士スバルラインのほか、大沢駐車場にある休憩施設や展望台も被害を受けた。
2018年3月には、鳴沢村の富士山(標高約2200メートルの地点)の大沢川で国が設けたカメラが大規模な雪代を記録。静岡県側の同川下流(標高約1500メートル地点)でも記録した。
最近では2021年3月21日に、鳴沢村の大沢崩れ上部で複数回発生。国土交通省富士砂防事務所によると、静岡県富士宮市の標高約1500メートルの大滝観測所や標高約900メートルの岩樋観測所の監視カメラが、土石流が流れる様子を捉えた。土石流は富士吉田市上吉田の砂防施設「富士山宮川堰堤工」や富士宮市内の砂防施設に流入したが、下流域への被害はなかった。一方、山梨県が3月22日に、富士スバルラインの4~5合目の道路4カ所で雪代による被害を受けたことを確認。御庭洞門付近で約25メートル、青草洞門付近で約110メートル、苔桃橋付近で約170メートル、石楠花橋付近で約20メートルにわたり、それぞれ土砂が道路を覆った。石楠花橋付近では、ガードパイプが壊れるなどの被害が出た。
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2009年の国土交通省富士砂防事務所(静岡県富士宮市)調べによると、富士山周辺で雪代が発生する可能性のある沢が、計83カ所あることが分かった。山梨県側は約40カ所に上るという。
2014年4月には、富士吉田市が雪代に備えた警戒本部を初めて設置。冬の記録的な大雪で富士山の残雪が例年以上に多いことから、雪代の発生につながる大雨注意報・警報の発令が予想された際、連絡員を配置し県や気象庁など関係機関から情報収集に当たるなど、住民の避難が必要な不測の事態に備えた。