富士山頂の所有権はどこにある?
富士山8合目以上の土地は国のものか、それとも富士山本宮浅間神社(静岡県富士宮市)のものか―。日本のシンボル、富士山頂の所有権をめぐっては過去、法廷闘争にまで発展した。
明治政府は、全国の浅間大社の総本宮、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)が境内として管理していた山頂を太政官布告などによって国有地に編入。政教分離の新憲法施行により、宗教活動に必要な土地の無償譲与が決まったが、一部しか認められなかったため神社側が提訴。以来、行政訴訟は最高裁まで争われ、決着がついたのは実に17年後のことであった。
『甲斐史学』という歴史学会報がある。1960年6月1日発行の第10号は、歴史家・上野晴朗氏の一文を載せている。その中に、山頂所有権をめぐる論争が紹介されている。それによると、「新憲法で祭政が分離させられたため政府は宗教団体を国家的に保護できなくなった。そこで富士宮市の富士山本宮浅間神社が戦前に政府から無償貸与されていた富士山頂国有地は、国の管理に移った」という。
これに対して、同神社の佐藤東宮司は1948年4月28日、大蔵省に対して「富士山頂は本社が宗教活動をするうえに必要であるから八合目以上122万6千坪を譲与してほしい」という申請書を提出した。この国有地譲与申請をめぐって議論百出し、国民の関心を集めた。大蔵省はこの申請に対して、浅間神社が宗教活動を行ううえに必要な地域として4万5千坪を払い下げることにした。ところが神社側は「本宮、山宮、奥宮の3社が一体となって構成されているのだから、山頂(奥宮)は当然全域が神体である」として訴訟に持ち込んだ。
1957年2月のことである。裁判は「宗教活動上の必要」と「国有とする公益上の必要」の有無が争われた。1962年3月、名古屋地裁は神社側の主張を認める判決を言い渡した。「国有にしておくべき公益上の必要は認められない。8合目以上の全部を神社に譲与すべきである」。この判決に、山梨県側は恐怖した。それでなくとも、静岡県と山頂所有を争ったばかりであった。「入山料を取られるのではないか」「富士山は山梨の山ではなくなってしまう」「富士山を観光拠点としてやっていく予定が崩れてしまう」-
それまでも、富士山頂私有化反対県民大会、富士山頂私有化反対国民大会などを、日観連、国立公園協会、全国森林連、日本風景協会、自然保護協会といった団体を動員して開いてきた。が、一審の後は、1960年に富士吉田市議会が山頂払下げ反対決議をし、山頂国有化の立法措置を政府に要請した。
しかし1967年、二審の名古屋高裁は、公益上国有地とすべき土地を一審判決より増やした形で神社側を勝訴とした。そして、決着は最高裁に持ち込まれることになった。1974年4月9日、最高裁第三小法廷における判決は「いわゆる神体山として信仰の対象とされている山岳などは、宗教活動に必要なものに当たる」と述べ、神社側の主張をほぼ認めた形となった。判決の中で、国側が国有とすべき理由として挙げた「国民感情や、まだ具体的計画がない文化、観光など公共の必要性」はその主張を退けられた。
ただし、判決によって山頂は神社の所有地になったものの、気象庁の山頂観測所など国の必要な土地は除外しており、これら施設が立ち退く必要はなかった。
判決確定後、国と神社の間の手続きは長年宙に浮いていたが、2004年12月になって財務省東海財務局が、神社の所有権を認めた30年前の最高裁判決に基づき、土地を無償譲与する通知書を神社に交付した。譲与されたのは、富士山8合目以上の土地404万5800平方メートルのうち、富士山特別地域気象観測所(旧富士山測候所)や登山道、山梨県道富士上吉田線などを除く約385万平方メートル。
土地譲与が長年遅れた理由について、東海財務局は「譲与には移転登記が必要だが、富士山頂は山梨、静岡両県の県境が未確定で土地表示がなく、登記できなかった」と説明。県境問題に進展がないため、神社側の要請を受けて先に譲与手続きを済ませることにしたという。
なお、富士山頂をめぐっては山梨、静岡両県の境界問題は依然、未解決のままである。
明治政府は、全国の浅間大社の総本宮、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)が境内として管理していた山頂を太政官布告などによって国有地に編入。政教分離の新憲法施行により、宗教活動に必要な土地の無償譲与が決まったが、一部しか認められなかったため神社側が提訴。以来、行政訴訟は最高裁まで争われ、決着がついたのは実に17年後のことであった。
『甲斐史学』という歴史学会報がある。1960年6月1日発行の第10号は、歴史家・上野晴朗氏の一文を載せている。その中に、山頂所有権をめぐる論争が紹介されている。それによると、「新憲法で祭政が分離させられたため政府は宗教団体を国家的に保護できなくなった。そこで富士宮市の富士山本宮浅間神社が戦前に政府から無償貸与されていた富士山頂国有地は、国の管理に移った」という。
これに対して、同神社の佐藤東宮司は1948年4月28日、大蔵省に対して「富士山頂は本社が宗教活動をするうえに必要であるから八合目以上122万6千坪を譲与してほしい」という申請書を提出した。この国有地譲与申請をめぐって議論百出し、国民の関心を集めた。大蔵省はこの申請に対して、浅間神社が宗教活動を行ううえに必要な地域として4万5千坪を払い下げることにした。ところが神社側は「本宮、山宮、奥宮の3社が一体となって構成されているのだから、山頂(奥宮)は当然全域が神体である」として訴訟に持ち込んだ。
1957年2月のことである。裁判は「宗教活動上の必要」と「国有とする公益上の必要」の有無が争われた。1962年3月、名古屋地裁は神社側の主張を認める判決を言い渡した。「国有にしておくべき公益上の必要は認められない。8合目以上の全部を神社に譲与すべきである」。この判決に、山梨県側は恐怖した。それでなくとも、静岡県と山頂所有を争ったばかりであった。「入山料を取られるのではないか」「富士山は山梨の山ではなくなってしまう」「富士山を観光拠点としてやっていく予定が崩れてしまう」-
それまでも、富士山頂私有化反対県民大会、富士山頂私有化反対国民大会などを、日観連、国立公園協会、全国森林連、日本風景協会、自然保護協会といった団体を動員して開いてきた。が、一審の後は、1960年に富士吉田市議会が山頂払下げ反対決議をし、山頂国有化の立法措置を政府に要請した。
しかし1967年、二審の名古屋高裁は、公益上国有地とすべき土地を一審判決より増やした形で神社側を勝訴とした。そして、決着は最高裁に持ち込まれることになった。1974年4月9日、最高裁第三小法廷における判決は「いわゆる神体山として信仰の対象とされている山岳などは、宗教活動に必要なものに当たる」と述べ、神社側の主張をほぼ認めた形となった。判決の中で、国側が国有とすべき理由として挙げた「国民感情や、まだ具体的計画がない文化、観光など公共の必要性」はその主張を退けられた。
ただし、判決によって山頂は神社の所有地になったものの、気象庁の山頂観測所など国の必要な土地は除外しており、これら施設が立ち退く必要はなかった。
判決確定後、国と神社の間の手続きは長年宙に浮いていたが、2004年12月になって財務省東海財務局が、神社の所有権を認めた30年前の最高裁判決に基づき、土地を無償譲与する通知書を神社に交付した。譲与されたのは、富士山8合目以上の土地404万5800平方メートルのうち、富士山特別地域気象観測所(旧富士山測候所)や登山道、山梨県道富士上吉田線などを除く約385万平方メートル。
土地譲与が長年遅れた理由について、東海財務局は「譲与には移転登記が必要だが、富士山頂は山梨、静岡両県の県境が未確定で土地表示がなく、登記できなかった」と説明。県境問題に進展がないため、神社側の要請を受けて先に譲与手続きを済ませることにしたという。
なお、富士山頂をめぐっては山梨、静岡両県の境界問題は依然、未解決のままである。
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