河口御師、江戸初期に隆盛
山梨県富士河口湖町古文書調査会が行った同町船津の富士博物館が所蔵する資料の調査で、江戸時代初期の河口御師の活動を示す文書が大量に残されていたことが判明。現在の群馬県や埼玉県などで檀家に金銭を貸し出したり、御師の間で檀家の売買をしたりしたことを示す文書があり、当時の御師の活発な活動をうかがわせる内容。
調査会は2010年ごろから、博物館の古文書の調査・整理を実施。文書は木箱から見つかり、約1200点に上る。このうち河口御師の「大梅谷家(おおうめやけ)」と「中村肥後家」に関する文書は約800点あった。年号などが明記されているものが多く、江戸時代初期から中期に当たる1600~1700年の文書は約150点あった。
江戸時代初期の文書の中には、現在の群馬県や埼玉県の檀家を回りながら金銭を貸していたことを示す証文があり、「御師から借りるお金は、富士山(神)への捧げ物なので必ず返す。返さない場合はどんな罰でも甘んじて受ける」という趣旨の記述があった。
また、同じく江戸初期に金銭を受け取り、檀家をほかの御師に譲る檀家の売買が行われていたことを示す文書もあり、現在の国中地域や関東近県の檀家の人数などが記されていた。
また、同文書の中から、江戸時代後期の1811(文化8)年に河口地区で起きた火事の被害状況を記した絵図も見つかった。絵図には当時の河口地区のメーンストリートに当たる鎌倉往還の中央に、河口浅間神社西側の呑川(のみかわ)から水を引いた水路が描かれている。
河口御師は約500年前の室町時代からあり、往時には約140軒が立ち並んだとされ、明治時代ごろまでは御師が活動していた記録が残っている。
調査会は2010年ごろから、博物館の古文書の調査・整理を実施。文書は木箱から見つかり、約1200点に上る。このうち河口御師の「大梅谷家(おおうめやけ)」と「中村肥後家」に関する文書は約800点あった。年号などが明記されているものが多く、江戸時代初期から中期に当たる1600~1700年の文書は約150点あった。
江戸時代初期の文書の中には、現在の群馬県や埼玉県の檀家を回りながら金銭を貸していたことを示す証文があり、「御師から借りるお金は、富士山(神)への捧げ物なので必ず返す。返さない場合はどんな罰でも甘んじて受ける」という趣旨の記述があった。
また、同じく江戸初期に金銭を受け取り、檀家をほかの御師に譲る檀家の売買が行われていたことを示す文書もあり、現在の国中地域や関東近県の檀家の人数などが記されていた。
また、同文書の中から、江戸時代後期の1811(文化8)年に河口地区で起きた火事の被害状況を記した絵図も見つかった。絵図には当時の河口地区のメーンストリートに当たる鎌倉往還の中央に、河口浅間神社西側の呑川(のみかわ)から水を引いた水路が描かれている。
河口御師は約500年前の室町時代からあり、往時には約140軒が立ち並んだとされ、明治時代ごろまでは御師が活動していた記録が残っている。
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