山崎隆夫と富士
山崎隆夫(1905-1991年)は、大阪に生まれ、幼少より画家を志した。18歳の時、医師であった父の失明により、一時断念したが、神戸師範学校(現・神戸大)在学中に、洋画家の小出楢重(1887-1931年)に師事。卒業後は銀行に勤務しながら、洋画家の林重義(1896-1944年)の下で学び、制作を続けた。
1932(昭和7)年以降、独立美術協会展や、新文展、国画会展などに入選を続け、新文展無鑑査、国画会会員となる。戦後は、抽象主義的な作品も描き、各種の展覧会の招待作家となる。1962(昭和37)年以降は、「富士山の見える所に住みたい」との希望から、神奈川県茅ケ崎市の海岸近くに居を構え、富士山をテーマとした作品を多く制作した。
作品「山下白雨」(山梨県立美術館蔵)は、葛飾北斎(1760-1849年)の「冨嶽三十六景」にも同名の作品があり、また山崎と同じ国画会の香月泰男(1911-1974年)の「雲上富士」の構図とも似た個所があって、それらとの関連が考えられる。
1932(昭和7)年以降、独立美術協会展や、新文展、国画会展などに入選を続け、新文展無鑑査、国画会会員となる。戦後は、抽象主義的な作品も描き、各種の展覧会の招待作家となる。1962(昭和37)年以降は、「富士山の見える所に住みたい」との希望から、神奈川県茅ケ崎市の海岸近くに居を構え、富士山をテーマとした作品を多く制作した。
作品「山下白雨」(山梨県立美術館蔵)は、葛飾北斎(1760-1849年)の「冨嶽三十六景」にも同名の作品があり、また山崎と同じ国画会の香月泰男(1911-1974年)の「雲上富士」の構図とも似た個所があって、それらとの関連が考えられる。
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