川崎小虎と富士
川崎小虎(1886-1977年)は、岐阜県生まれ。日本画家で、祖父の川崎千虎(1837-1902年)に大和絵を学び、祖父没後は、千虎門下の小堀鞆音(1864-1931年)に師事した。
日本美術学校日本画科を卒業後は、文展、帝展、日展で活躍し、1943(昭和18)年に東京美術学校教授、1967(同42)年に武蔵野美術大学名誉教授に就任している。初期には大和絵を基調とした叙情的な作品を描き、中期は大和絵から解放され自由奔放な表現となって、晩期には身近な静物などの素朴な主題を描いた。
小虎は1944(同19)年12月から山梨に疎開したが、戦後も1948(同23)年7月まで、4年間近く留まった。作品「甲州スケッチシリーズ」はその時期のもので、疎開先であった落合村(現・南アルプス市)からは南東に富士山、北西に八ケ岳を望むことができ、小虎は付近を歩いては富士山だけでなく、風景や草花、果物などのスケッチを続けていたという。
「富士山」(「甲州スケッチシリーズ」より)は山梨県立美術館蔵。
日本美術学校日本画科を卒業後は、文展、帝展、日展で活躍し、1943(昭和18)年に東京美術学校教授、1967(同42)年に武蔵野美術大学名誉教授に就任している。初期には大和絵を基調とした叙情的な作品を描き、中期は大和絵から解放され自由奔放な表現となって、晩期には身近な静物などの素朴な主題を描いた。
小虎は1944(同19)年12月から山梨に疎開したが、戦後も1948(同23)年7月まで、4年間近く留まった。作品「甲州スケッチシリーズ」はその時期のもので、疎開先であった落合村(現・南アルプス市)からは南東に富士山、北西に八ケ岳を望むことができ、小虎は付近を歩いては富士山だけでなく、風景や草花、果物などのスケッチを続けていたという。
「富士山」(「甲州スケッチシリーズ」より)は山梨県立美術館蔵。
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