吉田博と富士
明治時代後期から大正時代にかけて、風景画家の第一人者として活躍した吉田博(1876-1950)は、旧久留米藩士・上田束秀之の次男として福岡県久留米市に生まれた。幼少期から絵を好み、父の退職に伴って移り住んだ福岡市で、洋画家の吉田嘉三郎に画才を見込まれて吉田家の養子となった。
1894年に上京すると、洋画家の小山正太郎の不同舎に入門。1899年にアメリカに渡り、デトロイトやボストンで開いた水彩画展で成功を収めると、翌年にはヨーロッパに渡って絵の研さんを積んだ。
帰国後の1902年には、「太平洋画会」を創立。黒田清輝らが創設した「白馬会」とともに明治時代の画壇を二分する団体として発展した。以後、2度の渡米やインド旅行など、1950年に永眠するまで各地を遊歴し、風景画を描き続けた。
川瀬巴水や伊東深水らとともに木版画家としても知られ、伝統木版の技術を結集させた新しい感覚の版画約250点余りも残されている。
1914年の夏の1カ月間、富士山に写生旅行に出掛け、作品「富士」(河口湖美術館蔵)もその時期に制作されたものと推測される。船津村(現在の富士河口湖町船津)から眺めた富士山が、当時の家並の様子とともに描かれている。同様の構図は、1926年から発表された木版画「富士拾景」シリーズの中の「船津」にも見ることができる。
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2019年12月22日まで山梨県富士河口湖町の河口湖美術館で、企画展「吉田博展」を開催。版画作品をはじめ、スケッチや版木などの資料を含め約250点を展示。火曜日休館。
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