萩原英雄と富士
木版画家・萩原英雄(1913-2007)は甲府市生まれ。東京美術学校(現・東京芸大)油画科を卒業し、浮世絵版画などを手がける高見沢木版社に就職、出版物の企画立案などを手掛ける。この時に得た伝統的木版画の知識と経験が、後の木版画制作に生かされることになる。
1953(昭和28)年から、3年間の療養生活を送るが、その時に初めて木版画で年賀状を制作。以後、独学で版画制作を続け、1960(同35)年に、「石の花(赤)」が、第2回東京国際版画ビエンナーレで神奈川県立近代美術館賞を受賞、さらに内外の国際展で数々の受賞を重ね、世界的な版画家として確固たる地位を築いた。
萩原はすでにそのころから、故郷の富士山を木版画で表現することを構想し、葛飾北斎(1760-1849年)の「富嶽三十六景」からも想を得て、36点の連作「三十六富士」(山梨県立美術館蔵)を制作。その完成には25年の歳月が費やされ、いずれの作品にも富士山とともに生きる萩原の富士表現の真髄が描かれている。
「北斎は江戸の富士、彼の富士を残した。私は現代の自分の富士を彫ってみようと、いつ果てるともない仕事に挑んだ」と、萩原英雄は富士山をテーマにした経緯を語っている。
萩原は機会あるごとにさまざまな角度から富士山をスケッチし、写真を撮っては富士山の周辺を巡った。やがて富士山表現には富士山と一緒に呼吸することが必要だと、河口湖に程近い富士のすそ野に山荘を新たに購入。その思いから制作された富士山作品は、北斎が生きた時代とは社会背景が全く異なる現代で、北斎に挑戦すると同時に、現代人の共感を十分に得ることができる独自の富士山を生み出したといえる。
「拾遺(こぼれ)富士」(同館蔵)は、「三十六富士」の完成後に制作された。「富士は手に負えない山だ。とらえたつもりでも手の中からこぼれてしまう。これからは“こぼれ富士”を拾って歩こう」と、「三十六富士」よりも富士を凝縮した抽象表現に近い「拾遺富士」を12点制作。真正面から富士山に挑む大判の「大富士」(同館蔵)7点も制作している。
1953(昭和28)年から、3年間の療養生活を送るが、その時に初めて木版画で年賀状を制作。以後、独学で版画制作を続け、1960(同35)年に、「石の花(赤)」が、第2回東京国際版画ビエンナーレで神奈川県立近代美術館賞を受賞、さらに内外の国際展で数々の受賞を重ね、世界的な版画家として確固たる地位を築いた。
萩原はすでにそのころから、故郷の富士山を木版画で表現することを構想し、葛飾北斎(1760-1849年)の「富嶽三十六景」からも想を得て、36点の連作「三十六富士」(山梨県立美術館蔵)を制作。その完成には25年の歳月が費やされ、いずれの作品にも富士山とともに生きる萩原の富士表現の真髄が描かれている。
「北斎は江戸の富士、彼の富士を残した。私は現代の自分の富士を彫ってみようと、いつ果てるともない仕事に挑んだ」と、萩原英雄は富士山をテーマにした経緯を語っている。
萩原は機会あるごとにさまざまな角度から富士山をスケッチし、写真を撮っては富士山の周辺を巡った。やがて富士山表現には富士山と一緒に呼吸することが必要だと、河口湖に程近い富士のすそ野に山荘を新たに購入。その思いから制作された富士山作品は、北斎が生きた時代とは社会背景が全く異なる現代で、北斎に挑戦すると同時に、現代人の共感を十分に得ることができる独自の富士山を生み出したといえる。
「拾遺(こぼれ)富士」(同館蔵)は、「三十六富士」の完成後に制作された。「富士は手に負えない山だ。とらえたつもりでも手の中からこぼれてしまう。これからは“こぼれ富士”を拾って歩こう」と、「三十六富士」よりも富士を凝縮した抽象表現に近い「拾遺富士」を12点制作。真正面から富士山に挑む大判の「大富士」(同館蔵)7点も制作している。
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