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2002.6.21 所属カテゴリ: ふじさんクエスト / 文化・芸術 /

岡田紅陽と富士

 岡田紅陽[1895(明治28)-1972(昭和47年)]は、新潟県十日町市に衆議院議員・岡田龍松の三男として生まれた。本名は賢次郎。

 1914(大正3)年、早大予科に入学し友人からカメラを借りて富士山の写真を撮ったのがきっかけで、以後富士山の撮影をライフワークとした。その理由を「はじめて私が彼女(富士山)に接したころはとかくその形の美しさのみにこだわっていたが、富士にはいのちがあった。彼女には血も通い、息吹も躍動していた。私は彼女の気持ちの内容をつかむに悩んだ。私の富士は生きている。そして愛の鼓動が脈打っている」(顕彰碑完成記念誌より)と記しているほどの入れ込みようだった。紅陽は生涯、約38万枚にも及ぶ富士の写真を撮ったといわれる。その努力と執念が数々の名作を生んだ。

 特に「忍野富士」を世に知らしめた。山梨県忍野村には1915(大正4)年初めて訪れ、冬の間には村内の旅館や別荘に滞在し村民と親しく交流を深めたという。同村は岡田の生誕100年を記念し、2年の歳月をかけ1997(平成9)年に記念誌「富士こそわがいのち」(B5判、164ページ)を発刊。また2004(平成16)年には、「四季の杜(もり)・おしの公園」内の「四季の杜・生涯学習館」に、岡田が撮影した富士山の写真や、愛用のカメラなどを展示した「岡田紅陽写真美術館」を開館した。

 旧上九一色村(現富士河口湖町)からの富士にも定評があり、旧5千円札と新千円札の裏に描かれている逆さ富士のデザインは、1935(昭和10)年に本栖湖畔から撮影した作品「湖畔の春」を参考にしたといわれている。

 富士山写真集の刊行や国内外での写真展は数多く、また富士写真協会、日本観光写真連盟を創設して後進の指導に当たった。河口湖畔産屋ケ崎に顕彰碑が建つ。
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