2019.12.23
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山日紙面で見る富士山 /
12月 /
富士山修験の拠点、解明へ 県埋文センター
中道・円楽寺奥の院に行者、六角堂跡
県埋蔵文化財センターが発掘調査を進めている中道町右左口の円楽寺旧境内(奥の院)で、行者堂や六角堂の跡地が確認され、富士山修験の拠点だったとされる中世の寺の様子が明らかになってきた。
調査は、同センターの中世寺院分布調査事業の一環で行っている。奥の院は、現在の円楽寺の西方にある五社神社の裏山にあったが、昭和30年代に廃絶。調査前は雑木に覆われ、一部の地元住民に知られているだけだった。「中道町史」などに記録は残っているが、考古学調査は初めて。
調査では、奥の院まで登る石段や約8メートル四方の行者堂跡、直径約6メートルの六角堂跡を確認。建物跡の周辺には天文16(1547)年の石造物があり、中世の陶器のかけらも見つかっている。
同寺は、奈良時代に山岳修験の開祖・役小角(えんのおづぬ)が開基したと伝えられる。同センターによると、同所からは尾根伝いに富士山登山道が開かれ、中近世には甲府盆地からの富士山参詣の表玄関の役割を果たしていたという。
同センターは「富士山への信仰の道が中世を通じて守られていたことが分かってきた。富士山修験がどのように形成したのか考える上でも重要な遺構」としている。 【当時の紙面から】
(2005年12月23日付 山梨日日新聞掲載)広告