富士山と和紙と武田信玄
富士山と和紙と武田信玄-。三題噺のような三者の興味深い関係が、2009年に見つかった1枚の願文から鮮やかに浮かび上がる。願文は信玄直筆のもの。現在は山梨県富士吉田市のふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館)に収蔵されているこの願文は、信玄が富士山の神仏に、松姫とみられる娘の病気治癒を祈ったもので、願いがかなった場合は「娘が詣でる」「神馬を3頭献上する」などと記している。信玄が願いを託すほど圧倒的な存在だった富士山や、娘を思う父親・信玄の姿を伝える貴重な史料。
当時は文書の大半を家臣に書かせ、神仏にあてた願文や恋人にあてた手紙のみ自筆で書いていたと推察されている。一方で現存する信玄の自筆文書は少ない。では、この願文はなぜ信玄直筆と判明したのか-。
同館によると、直筆と判断した根拠は「信」の字の「言」の上部が「ユ」のようになる独特の筆遣いや、2、3文字ごとに墨をつけ直したことによる文字の濃淡の具合だという。
現在に残る信玄の筆跡。それだけでも貴重だが、筆跡からはさらに、信玄の性格や娘を思う細やかな気持ちまで分かるとは…。
信玄の人となりを筆跡として後世に伝えてくれたのは、実は和紙だった。和紙に墨で書かれた文字は今も鮮明に残っている。
山梨県立博物館によると、国内には奈良期の文書が1万点以上残り、和紙が千年以上も保存可能なことを裏付けている。だが、明治期に西洋技術が導入されて以降は化学薬品を使った洋紙が流通するようになる。和紙を席巻した洋紙だが、むしろ戦後の資料の方が劣化が進んでいると、和紙の優れた保存性を示唆する。
信玄の願文に使われた和紙の産地は不明だが、市川大門特産の和紙「肌吉紙」は武田氏の御用紙とされている。直接の証拠となる資料は見つかっていないものの、徳川家康が入国した翌年の1583年の文書で、紙職人だった大原家(市川大門)所蔵の「大原家文書」には、「以前から諸役が免除されたように諸役を免除する」とある。こうした状況から、徳川以前の武田の時代から御用紙だった可能性は高い、という。原料は今と変わらずにコウゾやミツマタを使っていたとみられる。
一方、現身延町の西嶋にも、西嶋和紙の祖とされる望月清兵衛が信玄へ和紙を献上したところ、功績が認められて紙改役の朱印が渡されたという伝承が残っている。
「紙」は弱く、もろい。同時に、したたかで、強い。電子データのテキストでは決して見えない風景を、時空を超えて現代人の眼前に運んでくれる。