富士講と御師
戦国時代末期の修験系行者の長谷川角行は、富士山をこの世と人間の生みの親と位置付け、富士講の基礎を築いた。信仰は弟子に受け継がれ、村上光清と食行身禄(じきぎょうみろく)の二派に分岐。身禄は北口を重視し、関東からの拠点として利便性が高い吉田に御師の宿坊が立ち並んだ。江戸時代後期の地誌「甲斐国志」(1814年)には上吉田村に86戸があったと記される。富士山の世界文化遺産登録では、往時の設えを現代に伝えるとして富士吉田市内にある旧外川家住宅と小佐野家住宅が構成資産に選定された。
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戦国時代末期の修験系行者の長谷川角行は、富士山をこの世と人間の生みの親と位置付け、富士講の基礎を築いた。信仰は弟子に受け継がれ、村上光清と食行身禄(じきぎょうみろく)の二派に分岐。身禄は北口を重視し、関東からの拠点として利便性が高い吉田に御師の宿坊が立ち並んだ。江戸時代後期の地誌「甲斐国志」(1814年)には上吉田村に86戸があったと記される。富士山の世界文化遺産登録では、往時の設えを現代に伝えるとして富士吉田市内にある旧外川家住宅と小佐野家住宅が構成資産に選定された。