北富士演習場と入会慣行
富士北麓に広がる北富士演習場は日本軍によって昭和初期に開設された。終戦とともに米軍に接収され、1973年に自衛隊の管理となった。米軍は静岡県の東富士演習場とともに「富士演習場」と位置づけ、本州最大の演習場となっている。県は北富士演習場の「全面返還、平和利用と段階的縮小」を掲げている。演習場では1997年から、沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の移転演習が行われている。
現在の北富士演習場がある土地は古くから山菜や木材を採取できる入会地として利用され、1736年には江戸幕府が11カ村の総有と認めた。1881年に明治政府が官有地に編入した後、皇室の御料地となり、明治の水害を機に県に下賜されて恩賜県有財産に。一部が地元に払い下げられるなど土地の権利関係は変遷した。
日本陸軍は1936年から1938年にかけて、官民有地2千ヘクタールを買収して北富士演習場を開設。演習場設置の理由を示す資料は見つかっていないが、1912年に開設された富士裾野演習場(現東富士演習場)に隣接していることから、利便性を考慮して整備されたとみられる。砲兵部隊の演習場として使われた。
戦後は米軍が接収し、基地「キャンプ・マックネア」を設置。1950年には1万7850ヘクタールを接収して演習場を拡張した。1956年に米海兵隊が沖縄に移駐し、1958年には演習場の一部やキャンプ・マックネアなどが日本に返還され、6500ヘクタールに縮小した。
米軍は常駐しなくなったが、沖縄の米海兵隊による演習は定期的に行われた。1965年にはロケット砲「リトル・ジョン」の発射訓練が行われ、反発する住民と警官隊が衝突。また、入会権などの権利関係を巡り、地元市村や富士吉田市外二ケ村恩賜県有財産保護組合(吉田恩組)、入会組合が主張を展開した。
1967年には保守と革新勢力の支持を受け、「全面返還・平和利用」を掲げた田辺国男氏が知事選に当選。現在に至る県是の礎が築かれた。防衛庁は米軍から自衛隊への使用転換に協力を要請したが、県は返還を求め主張は平行線をたどった。
転機は1972年。「日米安保条約に基づく米軍に提供するための土地の賃貸借契約は、民法の定めで契約後20年で満了する」との政府見解が示され、7月に演習場の県有地が返還された。国が無権限で演習場を使用する状態となり、8月には田中角栄首相が田辺知事と会談して暫定使用協定の締結を要請。田辺知事は民生安定事業の実施などと引き換えに受け入れた。
1973年には周辺整備事業や民生安定事業を条件に、県と国が自衛隊と米軍による北富士演習場の5年間の使用を認める「北富士演習場使用協定」を締結。北富士演習場の使用転換も決まった。5年ごとに新たな使用協定が結ばれ、2018年には2023年3月末を期限とする第10次使用協定が締結された。
富士吉田市と山中湖村にまたがる北富士演習場の現在の面積は約4600ヘクタール。内訳は国有地1900ヘクタール、県有地2400ヘクタール、民公有地300ヘクタールとなっている。東富士演習場は8800ヘクタールで「富士演習場」は北海道の矢臼別演習場(1万6800ヘクタール)に次ぐ規模。北富士演習場では1997年から沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の移転演習が行われているほか、2018年には陸上自衛隊と英陸軍による初めての共同訓練が行われた。
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北富士演習場のある富士北面の山野には古くから、地域住民が共同で立ち入って材木を切り、牛馬の餌や肥料にする草などを採る「入会」の慣行があり、江戸時代に幕府が11カ村総有の入会地と認めた。戦後、米軍が演習場を接収すると立ち入りが制限され、住民が反発。忍野村忍草では1947年に忍草入会組合を結成し、入会権を主張。演習場での座り込みや法廷闘争を繰り広げ、国に林野雑産物の補償と入会慣行を認めさせるとともに、各地の反戦・基地闘争に影響を与えた。