聖徳太子と富士
574-622年。用明天皇の皇子。推古天皇の摂政となる。603年「冠位十二階」を定め、604年「十七条憲法」を制定、また「天皇記」「国記」などの史書を編さんし、天皇中心の統一国家確立に努力した。607年、小野妹子(おののいもこ)らの遣隋使を派遣し中国の文物を吸収した。さらに仏教を尊崇して政治の基調とし、仏教の興隆を図り仏教文化が栄えた。四天王寺や法隆寺を建て、「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)を著した。
山梨県富士吉田市新倉の大原山如来寺に太子の銅像がある。高さ約30センチ、太子が甲斐の黒駒に乗り、従者の調使麿に手綱をとらせている。「甲斐国志」によれば「富士山7合目、駒ケ岳という地に小室あり、聖徳太子並びに銅馬を安置す。新倉村如来寺兼帯す…」とある。推古天皇(554-628年)の時代、諸国から集めさせた数百頭の名馬のうち、甲斐の国から献上した4脚の白い馬を太子が喜び、調使麿に飼わせた。秋になり太子が調使麿をつれて黒駒に乗ったところ、たちまち雲に浮かんで東方に走り、3日の間に富士山頂を通り信濃などに行って帰った。太子は神馬であるとほめた。また太子が没した時、甲斐の黒駒が太子の死を悲しみ、いなないて倒れたなどの伝説もある(「聖徳太子伝暦」など)。
一方、甲州市勝沼町の万福寺には、この神馬が残したという馬蹄石があり、同市大和町駒飼の駒飼石、同市勝沼町の駒塚明神など太子に関する伝説が多い。甲府市小瀬町の臨済宗仁勝寺には聖徳太子立像があり、太子16歳の尊像と伝えられている。鎌倉時代の肖像彫刻の代表作といわれ、1929年に重要文化財に指定された。
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