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「富士 芸術と文化の山」

山梨広告協会 夏季広告セミナー

【講演】大原美術館長 高階 秀爾さん  美の象徴、信仰の対象 日本の宝、世界に発信

 山梨広告協会(野口英一会長)は6月24日、甲府・山日YBSホールで夏季広告セミナーを開き、大原美術館長で美術評論家の高階秀爾さんが「富士 芸術と文化の山」と題して講演した。高階さんは、世界文化遺産の候補になっている富士山が、日本の文化・芸術はもとより、古くから人々の生活や信仰と深く結びついていたことを解説。「日本の宝、世界の宝」として、後世に伝えていく必要性を強調した。

 富士山は大変美しい山。日本人にとっては心のふるさと、精神の支えであり、文化・芸術を養ってきた。万葉歌人、山部赤人による「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」という歌があるが、詠まれたのは今から約1300年前。富士をたたえる長歌に対する反歌で、長歌では天地の始まりから富士がそびえていたことを歌い上げている。

 富士山は日本のほぼ中心にあり、古くから親しまれてきた。奈良・平安時代には都からは直接見ることができなかったかもしれないが、人々のイメージの中にはっきりと存在を残していた。同じ万葉集で高橋虫麻呂が「日本の大和国の鎮めとも座す神かも」と詠んでいるが、富士山が神であるという思いが当時の人々の間にあった。

自然の中に神の存在

 実際に富士山に対する信仰は非常に深い。山頂には、「古事記」に出てくる木花開耶姫命も祭られている。富士登山は単なる山登りではなく、信仰の登山。日本人は自然を崇拝するという自然信仰が強く、自然の中に神の存在を認めていた。特に山というのは神様がいる場所と、広く信じられていた。

 西洋では、アルプスに「悪魔の橋」と呼ばれる峠があるように、山には恐ろしいイメージがある。一方、日本では「菩薩峠」「観音岳」など、仏の名前が付いている。日本人にとって山は神や仏がいる場所であり、日本人の信仰の特色が現れている。

 富士登山は中世末期から江戸期にかけて大変盛んになった。そのための案内の図として「富士参詣曼荼羅」などが描かれた。富士山をあがめるのは、ご来光を拝むという風習として今も残っている。江戸時代は大衆文化も発達し、民衆の間でも富士山が親しまれた。「初富士」は正月三が日に日本橋から富士山を眺める習わし。そこから縁起のよい初夢として「一富士、二鷹、三なすび」の言い伝えが広がった。

 江戸に最初に城と街を築いた太田道灌は自らの住まいから富士山を間近に眺めた歌を詠んだし、徳川家康も江戸城西側に富士見櫓(やぐら)をつくった。

 面白いのは、殺伐とした闘争を繰り返す戦国武将たちも富士山に意外と親しんでいた。富士見櫓というのは各地の富士が見えるお城にあるが、同時に「富士」を「不死=死なない」にかけてそう呼んでいた。

 武士の戦闘道具であるよろいやかぶと、刀の鞘(さや)などにも富士山はしばしば描かれ、優れた美術工芸品として残っている。豊臣秀吉が愛用したと伝えられる黒黄羅紗の陣羽織。三峰型の富士の山頂で御神火が燃え、富士のご加護があるよう願いが込められている。下の方には水玉模様。「山」「火」「水」の三要素を対比させた大変モダンなデザインになっている。

竹取物語「不死」の山

 文学では万葉集以降、さまざまに歌に詠まれ、物語に語られてきた。物語のはじまりといわれる「竹取物語」の最後のシーン。かぐや姫は月に戻る際、帝(みかど)に不老不死の薬を残した。しかし帝は日本一高い山の上に大勢の武士を送り、その薬を焼かせた。その山は「不死」の山になるとともに、大勢の武士が出向いたことで「富士」にもなったという。このほか「源氏物語」「伊勢物語」などにも富士が出てくる。

 近世になると、俳句にも富士が登場する。江戸期の俳人、与謝蕪村の句に「不二(富士)ひとつうずみ残して若葉かな」という大変美しい句がある。若葉のころ、緑の世界に富士山だけが高くそびえている絵画のような情景を表している。松尾芭蕉の「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」。霧で富士が見られなかったが、芭蕉の心の中ではくっきりとその姿が立ち上がった。

 このような傾向は近代、明治以降もずっと続いている。非常に長い歳月にわたって富士山は日本人の心に大きな影響を及ぼしてきた。

 その具体的な作品を見ていくと、絵画に描かれた最古の富士は平安時代の「聖徳太子絵伝」と言われる。甲斐の国、今の山梨県から贈られた黒駒に乗った聖徳太子が、たちまち富士の頂上まで登っていく様子が描かれている。平安時代から鎌倉時代には、すでに「三峰型、万年雪」という富士の形が定型化していたようだ。

 富士山に登り参拝する動きとしては、室町時代に描かれた「絹本著色富士曼荼羅図」。日月の中央に富士山がそびえ、登山道の下には浅間神社、さらにその下にはみそぎのための川が流れている。また江戸期の「富士曼荼羅図」には、頂上の3つの峰に阿弥陀三尊が存在している。19世紀の「木花開耶姫像」では、山と自然信仰がさまざまな形で結び付いているのが分かる。

 江戸期、民衆信仰が盛んになった表れとして、工芸作品の中にも富士山が登場。海外からも繊細で、洗練されていると好まれた。明治時代の「東海道五拾三次蒔絵手箱」は日本橋や富士山など描かれている。日常の道具から、当時の庶民の暮らしぶりがうかがえる。

楽譜表紙に北斎作品

 「冨嶽三十六景」で知られる葛飾北斎は、富士山と人とのかかわりを豊かな想像力と巧みな構図で表現した。その連作の中の「凱風快晴」は見事な色彩で描き出した代表作であり、「神奈川沖浪裏」は波を大胆に表した。「三十六景」といいながらそれだけでは飽きたらず、「裏富士」10図を加えた計46点を生み出した。

 北斎は西洋にもよく知られ、印象派の画家モネはもちろん、マネもゴッホも作品を集め、その影響を受けた。音楽家のドビュッシーが交響曲「海」を作曲している時、「神奈川沖浪裏」の複製を部屋にかけて眺めていたことも分かっている。後に出版された「海」の初版楽譜の表紙には、その「浪裏」を使っている。

 北斎に並ぶのが、「東海道五拾三次」「名所江戸百景」で知られる歌川広重。名所江戸百景も実際には100点以上を世に送り出している。その一つに描かれた駿河町は、通りがまっすぐに富士山に向かうようにつくられた。富士山は江戸のまちづくりにも大きな役割を果たし、ランドマークとして人々に親しまれた。東京では今でも、駿河台、富士見町といった地名が多く残っている。

 近代で最も富士山を描いた横山大観は、独特の技法と構成で「群青富士」「日出処日本」など、生涯で1000点以上の富士の作品を残した。明治以降も日本画の松岡映丘や洋画の梅原龍三郎など、数えればきりがないほど、富士山は描かれ続けている。

 大観が「日出処日本」を制作したのは1940年。昭和期に日輪と富士の作品をいくつも描き、富士は日本のシンボルとして大観の中に息づいていた。敗戦後は一時、荒れ狂う太平洋と富士を描いたが、その絵の中で富士を見つめる竜からは日本を復興させるという決意が伝わってくる。

 富士山はわれわれのイメージの中にずっと生き続けている。美のシンボルであり、信仰の対象であり、歴史・文化と深く結び付いた存在である。富士を単なる自然としてではなく、精神的な面も含め世界の人々に認知してほしい。北斎や広重を通じた美術をはじめ、日本には絵画や工芸など優れた作品があることは広く知られている。自然を大事にする日本人の心情が富士を通じて生きていることを世界に対しての重要なメッセージと位置づけ、これからも発信し続けていきたい。

高階 秀爾(たかしな・しゅうじ)さん 大原美術館長、東大名誉教授。1932年東京生まれ。東大教養学部卒。パリ大学美術研究所に学ぶ。専門は西洋近代美術史。国立西洋美術館長、文化審議会長などを歴任。71年に芸術選奨文部大臣賞、2000年に紫綬褒章、01年にフランス、レジオン・ドヌールシュヴァリエ勲章、03年にイタリア、グランデ・ウフィチャーレ勲章などを受章。「世紀末芸術」「日本近代美術史論」「近代絵画史-ゴヤからモンドリアンまで」「西欧絵画の近代」「日本絵画の近代」など多数の著書がある。現在、NPO法人富士山を世界遺産にする国民会議の副理事長も務める

(2008年7月9日付 山梨日日新聞掲載)
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