1つ前のページに戻る

2018.9.07 所属カテゴリ: 山日紙面で見る富士山 / 9月 /

富士山大噴火の古文書 吉田の御師の家で発見

 三宅島の火山爆発が話題になっている折り、今から250年前の富士山大噴火のもようを記録した古文書がこのほど富士吉田市上吉田の御師の家で見つかった。

 宝永4年(250年前)に富士山が爆発した文献は現在静岡県御殿場市に保存されている新井白石の“柴焚之記”と御殿場市上町伴野松男家ほか1カ所に秘蔵されている3点の記録だけで、それも簡単に当時のもようを記録しただけのものだが、伊藤堅吉副館長が富士吉田市上吉田の御師の家から見つけた「宝永四年亥十月四日昼の九ツ(正午)より始まり同十二月十日朝御山あらわるる」と美濃紙につづられた「富士山焼出之答之事」の古文書には火山弾が飛び、民家がおしつぶされた恐ろしい当時の状況が細かく記入されてある。

 「十月四日昼の九ツ大地震富士山ろく表口駿州大宮町の民家残らずつぶれ、其後地震日無止。月を越し霜月十日ころより富士山ろく一日の内に三、四度ずつ鳴動すること甚し……」の書き出し文句で始まったこの記録によると、いまの須走周辺と印野村付近は火山灰で埋まり、民家がつぶされ、夜は火柱がふき上げて昼のように明るく、逆に日中は火山灰が降って空が真っ暗だったという。そしてこの宝永山の噴火で富士南ろくは焼け野原と化し、住民は避難することに夢中だったと書かれてあるが、一方吉田口の方は西風が強かったため被害を受けず、ただ流言がとんで金で品物を買うことが思うようにできなかったという。

 なお有史以来の富士の大爆発は貞観16年ふき出し、いまの青木ケ原を溶岩で埋め尽くした爆発が最も大きく、休火山となってしまった富士の爆発は今後起こらないものと見られているが、5合目以下には約70カ所ぐらい側火山があり噴火の跡をのぞかせている。 【当時の紙面から】

(1962年9月7日付 山梨日日新聞掲載)
広告