富士山の記録に残る噴火活動と三大噴火

富士山の記録に残る噴火活動と三大噴火
 富士山の噴火を書き留めた史料は多い。それによると、記録に残る噴火は十数回に上る。781年の『続日本紀』の記録以降、平安時代が活発だったが、1083年以降は4回しか噴火していない。うち「延暦の噴火(800−802年)」、「貞観の噴火(864−866年)」、「宝永の噴火(1707年)」が三大噴火として知られる。

 『日本紀略』に記された延暦の噴火では、山頂などから激しい爆発と溶岩の流出があった。特に801〜2年に起きた2度目の噴火では、砕石や火山灰が足柄路をふさいだので箱根路を開いたという。

 貞観の噴火は有史以来最大規模で、その様子は『日本三代実録』に残る。北西山腹の標高1424メートルから流れ出した溶岩流は扇状に広がり山野を焼き払った。青木ケ原や剣丸尾の溶岩地帯はこの時のものだ。また溶岩流は本栖湖とせの海にも流れ込み、せの海は西湖と精進湖に分かれた。

 宝永の噴火は、宝永東海地震の49日後の旧暦11月23日(12月16日)午前10時ごろ富士山南東側斜面で始まり、17日間断続的に爆発的な噴火が続いた。火山灰は当時の江戸まで流され、新井白石はその様子を自叙伝「折りたく柴の記」に「天甚だ暗かりければ、燭を挙て講に侍る」と記している。また降灰のため関東周辺ではせきに悩まされる人も多かったという。

 作家の新田次郎は、宝永の噴火で大きな被害を被った富士山東麓地方の災害復旧と農民救済に力を尽くした関東郡代伊奈半左衛門の生きざまを描いた著者「怒る富士」に当時の人々の混乱ぶりを記している。それによると、火の玉「火山弾」が上空高く舞い上がり、落ちては火の粉となって飛散した。須走村では焼け石が降り注ぎ、家々をことごとく焼き払った。障子戸は一晩中鳴り続け、冨士宮では噴火のために夜も明かりがいらないほどだった。

 また1999年には、山梨県甲府市の姉妹都市である奈良県大和郡山市で、富士山の噴火をつづった気象記録や、柳沢吉保・吉里時代の家老の屋敷図面など江戸時代(18世紀前半)の甲府を記述した貴重な資料が見つかった。資料は、柳沢家家臣の子孫で大和郡山市の旧家が所有していて、富士山の噴火の記録は、1703年から1708年までの6年間にわたり、甲府を中心に東京や大阪などの気象を記録した資料の中にあった。取り上げられているのは宝永の噴火で、噴火が始まった11月23日の出来事として「富士山二十三日の朝より焼け出でる」とし、昼ごろからは「灰が降った」と記述している。その後12月上旬まで毎日昼夜にわたり灰や砂が降ったことも記録されている。噴火後の余震や富士山の様子についても、「十二月九日の間に至って毎度地震起こり、火炎の中に電光あらわる」と書いている。翌年9月にも「九月十一日より十一月下旬に至る間、富士山また焼ける」と記述している。この気象記録には、噴火のほかにも雷雨などの気象状況や流行病などについて記している。

 宝永の噴火の名残は静岡県側宝永火口と宝永山(標高2693メートル)に見ることができる。裾野市から眺めると、新5合目の右側、山体中央部をざっくりえぐるかのように大きな「宝永第1火口」があり、その下に小さく盛り上がった「宝永山」が見える。

 宝永山は噴火1、2日後、上昇したマグマが山体を押し上げてつくったとみられている。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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