日本一の高所観測70年、今に伝える

日本一の高所観測70年、今に伝える
 日本の高層気象観測の先駆けであり、「台風の砦」として日本の空を監視してきた富士山測候所。1932(昭和7)年に中央気象台(現気象庁)臨時富士山頂観測所として設立された。シンボルの富士山レーダーは1999(平成)年11月1日で観測業務を終了、山頂に白く輝いたドームも撤去された。また自動観測技術の発達に伴い、職員の常駐観測も終了し2004(平成16)年9月30日無人化され、72年間の有人観測の歴史に幕を下ろした。

 明治時代、野中至夫妻が命がけで山頂の冬期観測に挑んだ。昭和には日本一高い場所への気象レーダー設置という難事業があった。いくつかの大きな「ドラマ」と、過酷な自然の中での地道な観測の日々が測候所の歴史を刻んでいる。長く測候所に勤務した志崎大策さんは、測候所の歴史を通観した「富士山測候所物語」を出版。測候所を支えてきた観測員らの奮闘努力を伝えている。

 志崎さんは、観測員の日誌(カンテラ日誌)や文献調査などに基づき、測候所の歴史を振り返った。「測候所自体は有名だが、過酷な自然環境に耐えながら観測を続けてきた多くの先人の情熱や苦労など真の歴史を伝えたい」。レーダー廃止を一区切りに、そんな思いで出版した。

 富士山頂の気圧は平地の3分の2。冬の最低気温はマイナス20度を軽く超え、台風並みの強風が吹き荒れる。雨や雪は横から風と共に吹き上がり、雷とも隣り合わせ。冬はアイゼンの歯も寄せ付けない堅い氷の斜面が行く手を阻む。山頂はそんな自然環境の中にある。そこでの通年気象観測は、満足な耐寒装備もない明治時代は「狂気の沙汰」でもあった。

 1895(明治28)年、野中至夫妻の決死的な越冬観測への挑戦をへて、山頂への観測所建設は1927(昭和2)年になってやっと実現した。しかし、国の設置でなく、筑波山で旧宮家創立の気象観測所長をしていた佐藤順一が、民間私財の協賛を受けて建設したものだった。

 1932年の中央気象台臨時富士山頂観測所設置は、国際的な極地の科学的調査が提唱された第二国際極年観測に参加したのが契機で、佐藤小屋を引き継いだ。現在の剣が峰へは1936(昭和11)年に移転した。

 測候所の建設やその後の荷揚げには、戦前、戦後を通じ、山梨や静岡の強力(ごうりき)が活躍した。志崎さんの記憶に残る強力で一番の力持ちは、山梨県谷村の志村弘さんだったという。富士登山した駐留アメリカ兵4人をてんびん棒の代わりに丸太で担いだほどだった、と振り返っている。

 太平洋戦争中に、2回も空襲があり、機銃掃射を受けたことや、戦時中には、山頂から東京灯火管制の実施結果を点検するという奇妙な観測があったことは、あまり知られていない。

 風の観測が最もつらく、機器に容赦なく付着する霧氷(氷点下で過冷却の雲粒が凍り付いたもの)を落とす「闘い」が続いたこと、低温下での発電の苦労、目の前に雷が落ちる恐怖、冬の勤務交替時などでの殉職者のことなど、平地では分からない現場のさまざまな苦労が、本の中で忠実に再現されている。

 「富士山測候所物語」は成山堂書店刊。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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