中村星湖と富士山

中村星湖と富士山
 河口村(現富士河口湖町)に生まれた星湖(1884―1974年)は、幼少より文学に親しみ山梨県立尋常中(現・甲府一高)に入学すると、「中学世界」「中学文壇」などの雑誌に投稿を始めた。そして早稲田大に進学、1904年4月の「早稲田文学」で、応募した懸賞小説「少年行」が一等になり、星湖は学生作家として華々しく文壇デビューした。

 「溶岩(らば)の崩れの富士の裾は、実に広漠たる眺めである」という書き出しの「少年行」は星湖の代表作で、富士山麓のふるさと河口湖の四季折々の風景、風物が織り込まれたある友人との交友を中心にした物語だった。 審査に当たった二葉亭四迷は「田舎の情景の中に小供も大人も嵌つたやうに出ているという心持で、ここが私の最も感心するところ」と評している。この一節は河口湖畔の産屋ケ崎に建つ文学碑に刻まれている。

 大学卒業後は「早稲田文学」の記者や翻訳の仕事に従事、1925)年には前田晁、望月百合子らと山梨県出身者の懇親の会「山人会」を結成、名称も提案した。さらに1926年、富士五湖地方文化協会を結成、機関誌「五湖文化」を創刊した。星湖は1945年河口湖に疎開、富士山ろくに育まれた恩を返すかのように、晩年は郷土文化の発展に寄与する活動に専念することとなった。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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