太宰治と富士

太宰治と富士

 太宰治(1909−1948年)が退廃した生活から抜け出すため、御坂峠の天下茶屋に移ったのは1938(昭和13)年9月で、滞在したのは2カ月間だった。

 井伏鱒二の“監視”のもと、作家としての再生を期していた。そして、井伏の紹介で甲府の石原美知子と見合いをし再婚、新婚生活の約8カ月間を甲府で過ごす。その間、「富嶽百景」「新樹の言葉」など十数編の作品を書き上げる。

 その後、東京に居住、戦後にかけて「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」「桜桃」「グッドバイ」など次々とヒット作を書き流行作家の地位を確立した。妻美知子の支えが大きかったという。

 太宰の死後、井伏らによって御坂峠に「富士には月見草がよく似合ふ」と刻まれた碑が建立されるが、太宰は御坂峠からの富士について「ここから見た富士はむかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった」「あまりにおあつらえむきの富士である」「まるで、風呂屋のペンキ画だ」「どうにも註文どほりの景色で、私は恥ずかしくてならなかった」(以上「富嶽百景」より)と、酷評している。

 しかし同じ作中、バスで「おや、月見草」と指さす老婆と隣り合わせ「三七七八メートルの富士山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合ふ」と書いている。ここが太宰文学の真骨頂なのだろう。

 【写真】御坂峠の天下茶屋には太宰治の遺品などが展示されている

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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