世界遺産「富士山」へ プロジェクト始動
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信仰の山を見つめ直す 人々の力で世界の宝に
小田全宏さん  NPO富士山を世界遺産にする国民会議・運営委員長
 私が東京で仲間と富士山を世界遺産にする運動を始めたのは2年ほど前。世界遺産とは何か、というところから勉強を始めた。ナイル川のアスワン・ハイ・ダム建設計画によって遺跡が水没の危機にさらされた際、ユネスコが世界に保護を呼び掛け、数年がかりで移築。これが世界遺産条約をつくるきっかけになっている。

 日本は1992年にこの条約を批准、2年後の1994年に山梨、静岡両県を軸に世界遺産登録運動が起きた。つまり私たち日本人は「世界遺産となる日本の宝は何か」と考え、富士山がふさわしいという答えに至った。

 世界遺産には「自然遺産」「文化遺産」というカテゴリーがある。富士山は普通に考えれば自然遺産。これで登録しようと、このとき多くの署名が集まり、国会に請願を出した。だが残念ながら、国内の暫定登録にすら入らなかった。原因の1つにごみの問題がある。世界的な登山家が「エベレストをマウントフジにするな」と語ったというほど、富士山には不名誉なイメージがあったことも事実だ。

 活動を始め、まず環境省に富士山が自然遺産になる可能性があるか聞いた。行政や多くの団体がごみ、し尿処理問題に取り組み環境は格段に良くなったのに、担当者は「自然遺産にはならない」と言う。理由は自然遺産の考え方として「世界中でそこにしかない特異な自然を登録する」からだ。富士山のような円すい形をした優美な山は少ないものの、実は世界に同じような山はいくつもある。

 こうした中で「富士山は単なる自然ではない」という発想が出てきた。文化遺産としての可能性が浮上し、現在の活動につながっている。

 これまで、さまざまな富士山の“本質”に触れてきた。名前にもいろいろある。その1つ「枝折山(しおりさん)」。昔、父親を富士山に捨てようと、背負って山を登った若者がいた。父親は道すがら木の枝を折って落とす。頂近く息子が父親を置いて山を駆け下ると地面が裂けて神の声がする。おまえは自分の犯した罪により地獄で苦しめ、と。そこに父親が助けに入り懇願、枝を折ったのは息子が迷わず帰れるためと言う。そして息子の命は助かった…という話がもとになっている。「養老山」「蹲虎(そんこ)山」「四方山」。このほかたくさんの名前、由来がある。

 日本には自然崇拝というものが昔からあった。自然界とわれわれの生活と神が合体していた。自然から人は勇気づけられる、もっと言えば命の根源を得ている。こうした発想の中で日本の宗教が形づくられてきた。やがて山岳信仰が生まれ、富士山は修行の場になった。その後、富士講が生まれ、大衆に広がる。東京には昔、あちこちに富士塚が造られた。富士登山には時間と金がかかった。「ここに上ったら登山したことにしよう」という、いわば模擬富士。信仰だけでなく生活の中に、富士山が溶け込んでいた。

 また、富士といえば象徴的に取り上げられる葛飾北斎。「冨嶽三十六景」の中にある富士山である。開国時に日本文化がヨーロッパに流れ、特に北斎の「神奈川沖浪裏」などが印象派の絵画に影響を与えた。ゴッホもひそかな浮世絵のコレクター。ドビュッシーも「浪裏」の影響を受けて交響詩を書いたという。

 宗教や芸術、そして文学の世界にも万葉集以降、繰り返し繰り返し富士山は登場してくる。文学者・永井荷風は本来の日本の美とは何かという問題に踏み込み、私たちはこの文明の中で本当の自然の素晴らしさというものを失ってきた。しかし富士を通してもう一度見つめ直そう−と語り掛けている。

 富士山はこれから先、一定のプロセスを経て世界遺産になるであろう。しかし富士山が世界遺産になるか、ならないかということは本質的な課題ではない。われわれの「生きる」という行為に、全く関係なしに世界遺産になっても意味がない。

 一人一人が富士山を世界遺産にする活動を通して、富士山に心を向け、その人にしかない「富士山と私の物語」を作ってもらいたい。21世紀初頭に生きた人たちが、こんなに富士山に、日本に思いを寄せてきたのか、と後世の人々が思えるような運動になればいい。多くの人々の力が融合したとき、名実ともに富士山は世界の宝になっていく。
小田 全宏(おだ・ぜんこう)さん 1958年滋賀県生まれ。松下政経塾出身。NPO日本政策フロンティア理事長。著書に「富士山が世界遺産になる日」など。東大法学部卒。

2006年6月26日付 山梨日日新聞掲載


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